索引の出来には編集者の力量が現れる。
索引の出来の指標は,索引として取り上げられるべき項目やページが,過不足なく取り上げられていること,であろう。
内容をしっかりと理解していないと,いい索引はつくることはできない。内容上の理解もさることながら,専門書でいえば,その本に関連する学問領域の概要を理解していたり,読者がどういった用語で索引を活用するかを理解していたりすることが求められるからだ。それらの力量がなくても,字面を追っていけば何となくは索引はつくることはできる(そして,「正しい」索引ができる)が,熟達者のつくる索引との差は間違いなくある。
とはいえ,その力量を見極めるのは難しい。なぜなら,索引をパッと見ても,いい索引かどうかはよくわからないからだ。使ってみないと,少なくともある程度引いてみないと,出来はわからない。
もちろん,レイアウトや見栄えや,基本的なつくり(→の見よ項目,子項目のつくりかたなど),さらには誤植の有無など(気づかれにくいが,誤植の宝庫である)はわかりやすい指標だ。でも,それは基礎的な約束事であり,一定の力量があればクリアできるはずだ。最も時間的制約から,「テキトー」な索引もままある。
索引として載っているべき項目が載っていない,あるいは索引として載せなくてもいい項目が載っている,という「不出来」について,見つけるのが簡単ではない。前者は本文を読んだ人でないと「わからない」し,かといって,索引に記載されていない特定の用語が「索引に含まれているべきだ」と思うに至るのは容易ではない。後者は,そもそもその用語で索引が活用されないだけなので,誰にも気づかれない。特定の用語であっても(例えば,「心の理論」),索引として取り上げられるべきかどうかは,その本の特性や用語が登場する文脈による。
必ずしも,多くの項目や多くのページが記載されている索引がよいわけではない。むしろ多い方が使いにくいかもしれない。全文検索ができればいいのかというと,そうでもないのだ。1冊に数回しか出てこない用語であればそれでいいだろうが,何十と出てくる用語で,でもそのうちの数カ所だけ,索引であたることができればこと足りる場合もある。大は小を兼ねない。
たまに言われるのは,目次が細かい本は索引は簡単でいい,あるいは目次が簡単な索引は索引は細かいほうがいい,ということである。特定の内容を知りたい場合に,多くの人は目次を使うだろうか,索引を使うだろうか。あるいは見比べてみてどちらかで探すだろうか。
用語を拾いにくい場合もある。筆致にも関係するが,用語はやはり名詞や体言止めのものでないと拾いにくい。「活動が広がっている」「広範な活動」はいずれも似たことを意味しているが,前者を索引として拾うのは難しい。索引を拾いやすい文章,拾いにくい文章というのはある。
偉そうに書き連ねているが,じつは最近,あまり出来のよくない索引をつくってしまった(結局作り直すことになった)。その反省のための備忘である。
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